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「組曲:ヴィオラ・トリコロール」に関する覚え書き。10/19改訂。
菊地成孔さんのアルバム「野生の思考」に収録されている委嘱作品「組曲:ヴィオラ・トリコロール」に関しての(作曲時などの)覚え書きなる物を書いてみようと思う。
この文章は単に「組曲:ヴィオラトリコロール」に関する覚え書き程度の物で、当然だが菊地成孔さんのアルバム「野生の思考」に対する言及ではない。また数字に関していろいろ思いを巡らすような事も今後書くかもしれないですがこれは「組曲:ヴィオラトリコロール」の作曲過程において考えていた事の一部であって、ライナーノーツで菊地さんが書かれている「3」にまつわる話と関係しているわけではない。
またこれは僕自身にとっての覚え書きでもあるので、つまり覚え書きの覚え書きというものだ。よって今後二楽章三楽章の事も載せようと思うがその過程で文章を削ったり足したりすることになると思う。昨日書いてあった事と全く違う事が書いてあるかもしれません。
取り急ぎ「一楽章」に関するスケッチが出来たので公開してみようとおもう。
一楽章
フーガの形式。ある旋律が次々と現れては消えてゆく。1stヴァイオリンで旋律が歌われる。主題の提示が終わると2ndヴァイオリンによって同じ旋律が歌われる。ただし五度下で。伝統的なフーガでは次の主題の提示は五度上で歌われるのだけどここはある種の鏡的効果と言いましょうか五度圏を順次下降してゆく形にした。そこには調(性)の引力と言う現代の耳においてはもう既に意識の裏側に入ってしまった事から乖離していこうとする意思があります。当たり前ですがこれは調性の否定ではない。単純な意味でこの曲がそういう構造であるという事だけの意味。しばらくは二重奏で進む。そこにヴィオラが2ndヴァイオリンの調性よりさらに5度下で旋律を歌います。その後すぐにチェロが反行形を(ヴィオラの調の)五度下で。でもこれは聴いているだけでは主題の提示とは気がつかないかもしれません。チェロの旋律はこの曲の主題の反行形で現れるのですがこれは主題の音程関係を上下逆さまにしているのです。つまり調性的にも鏡のような調的フィールドで旋律的に鏡状態に成っている物を歌うことになるのです。
、、、と、ここまでかくと、なんだか、「そんな事考えて音楽しているの?楽しければいいじゃん!」みたいな声が聞こえてきそうですが、はい、こんな事考えて作っています。とはいえいつもこんな事を考えて曲を作っている訳ではありません。より官能的に弦を編曲する時ももちろんあります。そういう時の方が多いかな。でも官能の種類が一種類だなんてあり得ないですもんね。僕の中ではアルバン・ベルクの官能性とクラウスオガーマンの官能性を統合したいなと。
シェーンベルグの唱えた12音技法がバッハがある一つの頂点にまで完成したフーガ/追走法のエレガントな(としか言いようの無い)敷衍である事を考えればバルトークが(そしてショスタコーヴィッチが!)フーガという構造にもう一度光を当てた事はその後の音楽の多様性という意味に於いて重要であった。フーガという形式を官能性を発露する形式として新たに構築し直したという事だ。
閑話休題、さて、この曲(第一楽章)は最初から最後まで7拍子で書かれています。曲の頭から7でカウントしているといろいろ何が音楽の内部で起こっているのか聞こえると思います。そしてチェロによる提示が終わったところからこの曲の楽譜上の拍節をまたいで3拍子的な音型が現れます。割り切れない数字に無理矢理三拍子を割り込ませているのです。ここに菊地さんは7拍子のリズムパターンのパーカッションを後日重ねました。それがどんな効果をもたらしているかといえば、単に複雑なパターンが重なっているのではありません。むしろ曲頭から感じていた7の拍節感が重なったことにより弦楽器が3拍子に行こうとしている重力を抑制しその後の全員によるトゥッティのをさりげなく(そして周到に)準備します。
本来のフーガであるならばこの後テーマが復帰したり、いろいろ細かく重なり合ったりします。この曲でも部分部分でそういった技法もありますがむしろ次の二楽章に向かって速やかに収束します。
二楽章 (coming soon)
三楽章
ハープとサックスのために美しい曲を書いて、ととあるファミレス店内のものすごい喧噪の中で委嘱され書いた曲。
さて、ハープとサックスです。ハープって楽器面白いですよ。何が面白いってその仕組みです。ちょっと説明すると(はっきりいってその構造を文章で説明するのは困難を極めますが、がんばります)、まず「見た目」的にものすごい本数の弦が張ってありますが基本的な状態においてはドのフラットの長調の音階に調律されています。さて足下に目をやりますと(たいてい演奏者は見目麗しい堀米綾さんなのでそうでなくても足下に目が行きます。、、、ってそんなエロ話はいいんですが)ペダルが七本あります。それぞれ「ドのペダル」「レのペダル」「ミのペダル」、、、となっていていてそれぞれのペダルは張ってあるすべてのそれぞれの音名の弦に対応しています。さてペダルは一番上になっている状態が一番弦に負荷がかかっていない状態でそこから一段階踏み込むと、例えばレのペダルを踏み込むとすべてのレの音が半音上がります。先ほどすべての音は基本的な状態でフラットに調弦されているわけですから一段階踏み込むとレの場合でしたらレのナチュラルになります。ペダルはもう一段階踏み込む事が出来るのでさらに踏み込むともう半音上がります。レの場合でしたらレのシャープになります。これで何となくわかって頂けたと思うのですが七本すべてのペダルを一段階踏み込むとドのナチュラルの長音階になります。さらにすべてのペダルを踏み込むとドのシャープの長音階になります。これがハープの音程を作る基本的な構造です。ふぇ〜^^;)
(ここから膨大な量のハープに関するいろんな和音の連なりの可能性に関する機構的事柄を書きまくりましたが煩雑になるので省略。)
僕は締め切り間際に突然音楽の神様が降臨されてがむしゃらに書きまくるタイプなのですが(といっても脳内作曲/脳内編曲は時間をかけてやっているわけですが、実際音符にするのは最後の最後になります)この曲にはちょっとした仕掛けがしてあります。
菊地さんのリクエストは「調性的には不安定な感じなんだけど美しい曲」という事でした。委嘱されてからしばらく時間がすぎた頃メールしました。「(武満徹の)遮られない休息+ビリーバウワー」こんなキーワードを送りました。菊地さんからの返信。「たった今まである人と武満徹のそれもまさに遮られない休息の話をしていたんですよ。」とのこと。おっ、これはいい感じだぞ。とは言っても武満さんの曲は音の使い方が本当に自由だし(、、というほど自由でもないところがいいんだけど)それがもちろん美しいのだけど果たしてあの雰囲気をハープで(もう一度上の記述をお読み下さいませ!)作るなんて出来るかな、とちょっと空白期間に入ってしまいました。
しかしさすがにそろそろ実際の音符に書いてゆこうかな、と思い始めた時そういえば菊地さんそろそろ誕生日だって言っていたな、じゃあこの曲は誕生日を記念して書こう、と思ったのです。そう決めたら一気に音が定着してきました。、、、つまりなんて言うんでしょう漠然と頭にならしていた響きがふと音符になって具体的になってくるのです。こんな響ききれいだな、こんな旋律いいななんていってあれこれ試行錯誤していた物があるキーワードをきっかけに必然性を帯びてくるのです。
もちろん音楽に必然性なんて全く必要ないわけですし、自動記述的に書かれた物ももちろん大好きなのですが、(こういう物の中にこそ必然性が濃厚に混入しているわけですが)これは個人的な物でその必然性という物が音楽の価値を高めるという事は全くないのだけど、曲を最後まで書くという事はそういった「拠り所」と言い換えても良い物によって導いてもらうという一面もあったりします。「構造」と言い換えても良いのですが、そういった物を(作曲時には)必要とするわけです。ですからこの必要とされた必然性あるいは構造という物も作曲が終われば後は(その音楽は)演奏者と聴いてくださる方々の物ですから必要性がなくなり言うなれば溶けてなくなってしまうような物なのです。、、、といいつつそんな事をお恥ずかしくもここでグダグダと書いているわけですが、、、。
さて、誕生日を言祝いで書こうと決めてから菊地さんに質問をしました。「菊地さんの故郷は海が近かったですか?」このもうTVでも放送され僕自身もそこから得て知っていた情報を改めて質問するという回りくどい物だったのですが非常に丁寧に答えてくださいました。これはあえてご本人の口(まぁ、メールの文面ですが)からお聞きしたかったのですね。
この曲は6/8拍子や9/8、12/8拍子という「3」を基本的なパルスに持った拍子で大部分が構成され一度だけ4/4拍子がでてきます。そして43小節目(これはもちろん43回めの誕生日の為の曲ですから)に菊地さんの名前を音名に置き換えた旋律が聴こえてきます。これは例えばフォーレだったら FAUREを ファ、ラ、ド、レ、ミと置き換えるのに似ていますね。そしてその名前からとった旋律中に海(SEA)を音名化したものつまり ミのフラット(エスつまりEs)、ミ、ラを含ませてあります。 さてそれからこんな風に小節数と年齢を関連づけてしまった物ですから曲の終わりが復縦線で閉じられていてはよろしくないですね。そんなわけでこの曲の終わりは終わりを持たないで音が永続的に続くように書かれています。もちろん息が続かなくて終わりますし、ハープの弦の減衰だって永続的な物ではないので物理的に音楽は終わりますが、、、。
コメント
数年前に私は一冊の小説を読みました。読みはじめてみると、それは今までに読んだどの本よりもとっつきにくく、読み進めることに困難を極めました。しかし途中から、その物語の登場人物たちに猛烈に惹かれ、混沌としながらも妖しい魅力を放つその物語が、ものすごい勢いで進んでいくのを目のあたりにし、強烈にのめり込んで読みました。それはまるで高熱にうなされるようでもあり、とてつもなく甘美な世界にどっぷりつかっているかのような体験でした。
その小説は、ジェームス・エルロイの「L.A.コンフィデンシャル」です。菊地さんの『野生の思考』は、私にとってはエルロイの世界が音で鳴らされているかのように思えます。エルロイは、今でも時折読み直したくなるのですが、最初に読んだ時のことを思うと、おいそれとは手を出せないのです。読んでいる間、あまりにも自分を支配されてしまうのが、怖いのかもしれません。でも『野生の思考』は、何度でも繰り返し聴きたくなってしまいます。聴くたびにいつも熱にうなされたような気持ちになったり、ある瞬間に熱から解き放たれたような気分になったりするのが、とても気持ちよく感じられます。
中島さんの「組曲:ヴィオラ・トリコロール」に関する覚え書きを興味深く読ませていただきました。むずかしいことはよく分からないのですが、あの曲が生まれる過程を垣間見れたような気がして、とても楽しく読ませていただきました。
中島さんはジェームス・エルロイはお好きですか? 菊地さんは以前に日記にエルロイがお好きだと書いておられたのですが、かねてから菊地さんの文章を読んで、「エルロイがお好きなのかな?」と思っていたので、ちょっと謎がとけた気分でした。
Posted by NM :